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【中日对照】逃走の弁護/逃的辩护(鲁迅《伪自由书》)
2008-7-22 15:03:54
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逃走の弁護

 むかしの女というものは、まったく不運であった。一挙一動、すべてがわるく、これもいけない、あれもいけないと罵られどおしだった。現在では、この不運が学生の身にふりかかってきて、進んでも罵られ、退いても罵られる。
 まだわれわれは覚えているが、一昨年の冬以来、学生はどのようにさわいだか(満州事変以来の対日抵抗要求の運動をいう)、南下したい学生もあれば、北上したい学生もあったが、南下するにも、北上するにも汽車を出してもらえなかった。やっと首都(南京)について、頭を地につけて請願すると、意外にも「反動派の利用するところである」とされ、おびただしい頭がみんなうまい工合に銃剣や銃把に「ぶつかって」、あるものはなんと「自分で足をふみ外して水に落ち」て死んでしまった(一九三一年十二月十七日、対日抵抗を請願するため南京の国民党中央部に赴いた三万の学生に警官がおそいかかり、百数十名の死傷者を出した事件と官憲の言いわけ)。
 検死の後、報告書では「身体が五色になっている」ということであった。私は何のことやらまったく分らない。
 誰か一言でも質問し、誰か一言でも抗議を口にしたろうか? 一部の者は学生たちを笑い、罵ったが。
 退校処分にしろとか、家長に知らせろとか、研究室に引っこむことを勧告しろとかであった。この一年来、事態はよくなって、どうやら静まったところである。だがはからずも山海関の守備がやぶれて、上海まではまだ遠いが、北平はどうもイケなくなった、研究室さえ危険になったからだ。上海に住んでいる人たちは覚えているにちがいない、昨年二月の曁南(きなん)大学、労働大学、同済大学……などのことを、あのさわぎ(一九三二年の上海事変をいう)で研究室に腰をおちつけていられたであろうか?
 北平の大学生は知っている、また記憶力もある、今度はもう二度と頭を銃剣や銃把に「ぶつける」ようなことはしないし、もう「自分で足をふみ外して水に落ち」るようなことをして、「身体が五色」になろうとは思わない、むしろ一種の新しい方法を発明した、それは、みなでちりぢりに逃げ出し、めいめいの家へ帰るということである。
 これこそこの数年来の教育の効き目があらわれたというものである。
 ところが、またしても罵る人がいるのである。少年軍では烈士たちの死を弔う対聯(文句を対にならべた掛物)に、学生たちのことを「臭(しゅう)を万年に遺(のこ)す」とさえいっている。
 だがわれわれは少し考えてみよう、語言歴史研究所内の、血のかよわぬ骨董でも移転しているではないか? 学生がそれぞれに一機ずつ飛行機を自分で用意するということはできないではないか? 自国の銃剣や銃把に「ぶつか」って頭がふらふらになって、研究室へ身をかくしたものが、どうして頭がふらふらでもないのに、外国の飛行機や大砲に爆撃されながら研究室から出て行かないわけがあるだろうか?
 ナムアミダブツ!
   (一月二十四日)

逃的辩护

 

  古时候,做女人大晦气,一举一动,都是错的,这个也骂,那个也骂。现在这晦气落在学生头上了,进也挨骂,退也挨骂。

  我们还记得,自前年冬天以来,学生是怎么闹的,有的要南来,有的要北上,南来北上,都不给开车。待到到得首都,顿首请愿,却不料“为反动派所利用”,许多头都恰巧“碰”在刺刀和枪柄上,有的竟“自行失足落水”而死了。〔2〕验尸之后,报告书上说道,“身上五色”。我实在不懂。

  谁发一句质问,谁提一句抗议呢?有些人还笑骂他们。

  还要开除,还要告诉家长,还要劝进研究室。一年以来,好了,总算安静了。但不料榆关〔3〕失了守,上海还远,北平却不行了,因为连研究室也有了危险。住在上海的人们想必记得的,去年二月的暨南大学,劳动大学,同济大学……,研究室里还坐得住么?〔4〕北平的大学生是知道的,并且有记性,这回不再用头来“碰”刺刀和枪柄了,也不再想“自行失足落水”,弄得“身上五色”了,却发明了一种新方法,是:大家走散,各自回家。

  这正是这几年来的教育显了成效。

  然而又有人来骂了〔5〕。童子军还在烈士们的挽联上,说他们“遗臭万年”〔6〕。

  但我们想一想罢:不是连语言历史研究所〔7〕里的没有性命的古董都在搬家了么?不是学生都不能每人有一架自备的飞机么?能用本国的刺刀和枪柄“碰”得瘟头瘟脑,躲进研究室里去的,倒能并不瘟头瘟脑,不被外国的飞机大炮,炸出研究室外去么?

  阿弥陀佛!

  一月二十四日。

 

  〔1〕本篇最初发表于一九三三年一月三十日《申报·自由谈》,原题为《“逃”的合理化》,署名何家干。

  〔2〕指学生到南京请愿一事。九一八事变后,全国学生奋起抗议蒋介石的不抵抗政策。十二月初,各地学生纷纷到南京请愿。国民党政府于十二月五日通令全国,加以禁止;十七日出动军警,逮捕和屠杀在南京请愿示威的各地学生,有的学生遭刺伤后,又被扔进河里。事后反动当局为掩盖真相,诬称学生“为反动分子所利用”、被害学生是“失足落水”等,并发表验尸报告,说被害者“腿有青紫白黑四色,上身为黑白二色”。

  〔3〕榆关即山海关,一九三三年一月三日为日军攻陷。〔4〕一九三二年“一二八”日本侵略军进攻上海时,处于战区的暨南大学、劳动大学、同济大学等,校舍或毁于炮火,或被日军夺占,学生流散。

  〔5〕山海关失守后,北平形势危急,各大、中学学生有请求展缓考期、提前放假或请假离校的事。当时曾有自称“血魂除奸团”者,为此责骂学生“贪生怕死”、“无耻而懦弱”。周木斋在《涛声》第二卷第四期(一九三三年一月二十一日)发表的《骂人与自骂》一文中,也说学生是“敌人未到,闻风远逸”,“即使不能赴难,最低最低的限度也不应逃难”。

  〔6〕“遗臭万年”一九三三年一月二十二日,国民党当局为掩饰其自动放弃山海关等长城要隘的罪行,在北平中山公园中山堂举行追悼阵亡将士大会。会上有国民党操纵的童子军组织送的挽联,上写:“将士饮弹杀敌,烈于千古;学生罢考潜逃,臭及万年。”〔7〕语言历史研究所应作历史语言研究所,是国民党政府中央研究院的一个机构,当时设在北平。许多珍贵的古代文物归它保管。一九三三年日军进攻热河时,该所于一月二十一日将首批古物三十箱、古书九十箱运至南京。

 

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