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【中日对照】上海にいる魯迅、声明す/在上海的鲁迅启事(鲁迅《三闲集》)
2008-5-12 13:51:28
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上海にいる魯迅、声明す

 一ヶ月あまり前のことだったと思うが、開明書店から、M女士の手紙を転送してきた、それには次のようなことが書いてあった、――
 「一月十日、杭州の孤山でお別れしましてから、長いあいだお目にかかれません。この前、時々お手紙をいただいて御指導いただけるようお許しを得ましたが……。」
 私はすぐに返事を書いて、杭州へはもう十年ほど行っていないので、孤山で別れたりするはずはない、だから彼女が出会ったのは、別人であろうといってやった。二週間前、そのM女士がもと私の講義をきいたことのある友達二人とつれ立って訪問し、三方面から、孤山で知ったというのは、確かにもう一人別の「魯迅」であることが証明された。だがM女士はまた曼殊(まんじゅ)(僧侶で文学者、日華混血児といわれ、魯迅が日本にいるときの友人、一九一八年に三十五歳で死す、杭州に墓あり)和尚の墳(はか)の側で、と題した四句の詩を見せてくれた、――
「我、君の寂居に来る、 喚醒するは誰氏の魂?
 飄萍(ひょうへい)す山林の跡、 待到す他年、公に随って去るを。
    魯迅杭州に遊び、老友曼殊を弔う句
             一、一〇、十七年」

  (詩の意味は、「私は君の寂しく眠っているところへ来た、誰の魂を呼びさまそうとするのか? 山林をぶらぶらさまよいあるく、いずれいつかは君のあとを追って行く」というのだが、大へんまずい、あやしげな詩で、ニセものであることはすぐわかる。――訳者」

 私はそれで手紙を書いて、杭州にすむH君に聞いてやったが、一昨日返事がきて、確かにそういう人物とあった人がいる、城外で教師をしていて、周という姓を名乗り、前に『彷徨』という本を書いて、八万部売れたが、自分では不満に思っていて、遠からずもっといいものを発表するだろう云々といっていたとあった。
 中国にもう一人、本姓が周であるのか、あるいはないのか、とにかく周という姓だといって、名も魯迅という人がいるとしても、私には何とも仕様はない。だが彼が自分のことについていっていることをみると、大たい私と同様であって、どうも私は困るのである。その詩があまりうまくないことは、必ずしも問題ではないとしても、しかし勝手に曼殊に向って「いずれいつかは君のあとを追って行く」というのは、どうもあまりに専制的のようだ。「行く」のは、もちろんどうしたっていつかは「行か」ねばならないわけだが、しかし曼殊の「あとを追って」行くとは、私自身は夢にも考えたことはない。ただしこんなことは小さなことであるが、特に恐縮したのは、人に対して「指導」を約束する……といったようなことである。
 私が上海に来てから、色々な新聞で私が「本屋を開くだろう」とか「杭州に遊んだ」とか書いた。実は私は本屋も開かないし、杭州へも行かず、ただ相かわらず階上に引っこんで、翻訳をやっているだけである。というのは、私は人力車も曳けないし、無煙火薬を製造することも学ばなかったからで、それでこうして筆をつかって何とか飯をくっていくより仕方がないのである。こうして筆をつかって何とか飯をくっているために、それで忽ちに「先駆者」に推されたり、また忽ちに、「落伍者」につきおとされるという始末である、これはしかし自業自得で、どうでもかまわないことだ。だがもし他にもう一人の「魯迅」がいて、私のかわりに教えたり、詩を作ったりして、そしてその結果は私一人で責任をおうとなったら、それこそ本当に「閒暇、閒暇、もう一つ閒暇」であるどころか、翻訳をする暇さえなくなってしまう。
 だからここに改めて一つの声明を発表するものである。声明の内容は、私の外に、今年少なくとももう一人「魯迅」という人物がいるが、しかしこの「魯迅」の言動は、私とは、つまり『彷徨』を出版したことはあるが八万部は売れなかった魯迅とは関係ないということである。
   (三月二十七日、上海にて)

在上海的鲁迅启事

大约一个多月以前,从开明书店转到M女士的一封信,其中有云:
“自一月十日在杭州孤山别后,多久没有见面了。前蒙允时常通讯及指导……。”
我便写了一封回信,说明我不到杭州,已将十年,决不能在孤山和人作别,所以她所看见的,是另一人。两礼拜前,蒙M女士和两位曾经听过我的讲义的同学见访,三面证明,知道在孤山者,确是别一“鲁迅”。但M女士又给我看题在曼殊师坟旁的四句诗:
“我来君寂居,唤醒谁氏魂?
飘萍山林迹,待到它年随公去。
鲁迅游杭 吊老友
曼殊句一,一○,十七年。”
我于是写信去打听寓杭的H君,前天得到回信,说确有人见过这样的一个人,就在城外教书,自说姓周,曾做一本《彷徨》,销了八万部,但自己不满意,不远将有更好的东西发表云云。
中国另有一个本姓周或不姓周,而要姓周,也名鲁迅,我是毫没法子的。但看他自叙,有大半和我一样,却有些使我为难。那首诗的不大高明,不必说了,而硬替人向曼殊说“待到它年随公去”,也未免太专制。“去”呢,自然总有一天要“去”的,然而去“随”曼殊,却连我自己也梦里都没有想到过。但这还是小事情,尤其不敢当的,倒是什么对别人豫约“指导”之类……。
我自到上海以来,虽有几种报上说我“要开书店”,或“游了杭州”。其实我是书店也没有开,杭州也没有去,不过仍旧躲在楼上译一点书。因为我不会拉车,也没有学制无烟火药,所以只好这样用笔来混饭吃。因为这样在混饭吃,于是忽被推为“前驱”,忽被挤为“落伍”,那还可以说是自作自受,管他娘的去。但若再有一个“鲁迅”,替我说教,代我题诗,而结果还要我一个人来担负,那可真不能“有闲,有闲,第三个有闲”,连译书的工夫也要没有了。
所以这回再登一个启事。要声明 的是:我之外,今年至少另外还有一个叫“鲁迅”的在,但那些个“鲁迅”的言动,和我也曾印过一本《彷徨》而没有销到八万本的鲁迅无干。
三月二十七日,在上海。

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